アルコール依存症治療専門病院 高嶺病院

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【重要なお知らせ】新ホームページに移行しました

 高嶺病院は新しいホームページアドレスと電子メールアドレスに変更となります。今後ともよろしくお願いいたします。

新ホームページアドレス: http://koryohp.com

新メールアドレス: info@koryohp.com

高嶺病院は創立30周年

 平成24年3月1日で、高嶺病院は、創立30周年を迎えました。

★第148回★
★アルコール勉強会★

テーマ:『大学病院におけるアルコール依存症患者のかかわりを踏まえて』
講師:山口大学医学部附属病院 精神科神経科
医師 佐々木 順 先生
日時:平成30年3月23日(金)
19:00〜20:30

 拝啓、春陽の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。  さて、3月のアルコール勉強会のご案内です。今回の勉強会は、週に1度当院に勤務されている佐々木先生に総合病院におけるアルコール医療の取り組みについてお話ししていただく予定です。 今年度最後の勉強会となります。お誘い合わせの上、多くの方のご参加をお待ちしています。 尚、勉強会の日程が変更になっておりますのでご注意ください。

高嶺病院 連絡先

医療法人社団 信和会 高嶺病院

〒759-0134 山口県宇部市大字善和187番地の2

電話番号 0836-62-1100(代)
ファックス 0836-62-1105
メール info@koryohp.com

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第20回高嶺病院同窓会より

20周年を振りかえって

まん

 こんにちは。アルコール中毒の 「マン」 です。

 今、色んな話を聞いてまして。私は実は、Fさんに助けられたんですよ。うちの家内が断酒会(やわらぎ、銀鈴)にちょこちょこ行っていたようで。それで、私がどうにもならなくなった時に、藤原さんに助けを求めたということで…私は覚えてないんだけど…目が覚めたら"ピンクの部屋"(*1)だったということです。

 何はともあれ、今日は高嶺病院同窓会の20周年ということで、まあ我々アルコホーリックが先ほど事務長さんの話にもありましたように、色んな病院との葛藤があって、大変我がまま者で自己中心的で、倣慢でという風な我々アル中との葛藤があって、その上で20周年というんですから、その積み重ねは価値あるものだと思いますし、院長先生とか、他の先生方、看護婦さん、スタッフの方々に大変な苦労がおありだったと思われますし、皆さんもそう思われると思います。
  今日は、同窓会ということですが、同窓と言ったら、どうも辞書を引いてみますと、同じ学舎に学ぶ人達、というそうです。同じ学舎、高嶺病院で学んだ我々です。だから、その人達が集まってこの20周年をお祝いするわけですけれど、私はちょうど、卒業する時(退院する時)、が5年目だったんですね。だから盛んに5周年の案内文なんかも書いたんですけどもね。そんな思い出もあります。本当に、20周年の積み重ねといったら大変なものだとみなさんも共感されると思います。先ほどの渡辺シスター(*2)の話とか、F・Mさんの話とか聞いてますと、人間性の問題というのがよくわかるんですね。ところが、なかなか、今司会の方も回復者の話ということだったんですが、とてもとても回復出来たと思っていませんし、まあ、回復しつつある、回復しようと思って努力しているという風なことを付け加えたいと思います。私には奥の深い話は出来ませんので。ここの集まっている、共に学ぶ仲間として、私がどんな風な生きざまをして来たかという風なことを、自分の事として話してみたいと思います。

 やっぱり、皆さんそうだと思うんですが、酒大好き人間です。だから今でも決して嫌いになった訳ではないと思うんです。飲んでないからわかりませんけどね。コマーシャル見てドキッとしますから、やっぱり好きなんでしょうな。で、どう言いますか。本当に小さい時、実はね…
  私が小学校の2年生か3年生の時だったと思うんですけどね、私は実家が農家だったんですけど、台所の戸棚に梅焼酎がとっくりに入っていたんですね。とっくりではなく、ビンですね。それを眺めていて、それに手を付けた事があるんです。チビリチビリやりよったら、とうとうそれが空になってしまったことがあります。こつぴどく叱られましたけど。そんな風で、それからずっと後に、私は予科練を出ましたけど、それまで飲んだ事はありません。予科練を出る時、出兵するとき、別れの杯をやりますね。その時に飲んだくらいです。ところがね、予科練に行って、こつぴどく飲まされたんですね。実は予科練の訓練を終わって、私は教育係にまわされたんですね、私の同僚は戦地に派遣されて死んでいます。私は幸運なことに、教育係に廻されまして生き残っています。まあこれも、何かの力の成せる技かもしれませんが。そんな歓迎会の時に飲まされたんです。こりや、本当に飲まされたと言うもんじやなくて、押し込まれたという感じでした。そこでブラックアウト。これが最初のブラックアウトだと思うんです。それ以来、ブラックアウトは数え切れないほどあります。

 でもまあ、それが最初だと思うんですね。それから復員してですね、百姓やりながら段々酒を飲む機会が多くなっていくわけですけれども、やっぱり酒飲みというのはどうにもなりませんね。うちのじいが二十何歳の時に亡くなりましたけど、じいの兄弟というのはみんな健在で、それが葬式に来て飲んだら、じいが喜ぶやろうと言って飲むわけですよ。そのお引き受けを親父そっちのけでやるわけですよ。それが24、5歳だったと思います。そんな調子ですから、それから酒浸けという人生を歩いて来ているわけです。さっきの渡辺先生の話によると、その間、時間を損しているわけです。
  それこそもたなくなったのは、46歳の時。第1回目の精神病院に入っているんです。その前に、ある病院で入院させられて幻覚も出たという事を経験しています。ところが、幻覚が出てもね、何のそのですよ。それから飲む事にかけては、幻覚何のそので、「飲んで死ぬなら本望だ」と飲みよったんですから。

 さきほどの渡辺先生の話にすれば、「命を粗末にする。これに勝るものはない」という感じがします。だから46歳の時、第1回目の精神病院へ入ったんですけども、それから精神病院には4回出入りしていますね。内科というのはあつちこつちに行っていますが、高嶺病院に入るその前は内科だったんですけど、病院の中でおおっぴらという訳にはいかないんですから、隠れて飲んでましたね。嘘をついては眼医者に行く、歯医者に行くと嘘を言って出る訳です。一升瓶を抱え込む。夜飲むわけです。ところが、金曜日、採血の検査なのです。それが済むと、二、三日とぶっ続けて飲むわけです。後は知らん顔してるわけですよ。それでまた採血をする。と、そういう風な状態だったわけですね。いわば、おおっぴらに飲んでいたということでしょう。だから強制退院ですよ。これはしょうがないですね。

 ところが、強制退院をくらう時に医者から宣言を受けてたんです。私はそんなに慎重に聞いていたわけでもないし、それを受け止めていたわけでもないんですが、家内は大変でね。もう葬式の用意をしなければならないと言うんで、「葬式保険」なんていうものに入ったらしいんですけど、肝硬変で食道静脈癌でいつ破裂するかも分からないと、そんな状態。おまけに、「あと、2ケ月持たないでしょう」と言われましてね。そして追い出されたんですよ。だから、家族が大変だったそうです。「そうです」ぐらいしか、言えないんですからね。「葬式の駐車場どこにするか?」とかね。ところが、それが8月でしたから11月に高嶺病院に、先ほど話しましたように、Fさんに連れられて、気が付いたら"ピンクの部屋"ということですから、もう、全く覚えてないわけですよね。そういう状態で入院したものですから、まあ、2ケ月ぐらいはボロボロですよ。髪は長く伸ばしっぽなし、顔は黒いというか頬はげつそりして、まあ、見るも無惨という格好というのを、後々その当時一緒に入院していた仲間が話します。未だに、もう今頃は話しませんが、随分話してました。何でも、「あのときのマンさんは見られたもんじやなかったよ」って言うんです。だからその当時の事を考えると、本当にぞっとします。けれども、そういう状態だったんだということですね。3ケ月もって11月に高嶺病院にお世話になったのだからいつ死んでもおかしくなかった。肝硬変、食道静脈癌ということなんです。

 ところがですね。今の私はね、食道静脈痛も跡形がないんですね。肝硬変も跡形がないんです。これは、医学的にもどうだも私は知りませんけれど、私の身体から消えていること、それは確かです。だから、何がどういうふうになってどうなったのか分かりませんけれども。そういうふうなことを、非常に私自身が驚いてるし、本当に生かされているんだなぁという感じます。どういう面でも感じることができるんです。で、今、先ほど事務長さんの話の中で、AAという話が出ましたけれど、実は、AAを始めたきっかけなんですけど、同室の、ある敦賀から来た人なんですが、ペンキ屋さん。この人が退院するかどねいしようかと言うんですね。「そりや断酒会に行かんにやいけまーで」と、話をしよって敦賀の保健所に問い合わせをしたんですね。断酒会に世話になりたいんですが、どこに行ったらええんじやろうかというふうな手紙を書いたところが、敦賀の方から来た返事ですね、こつちには断酒会っていうのもはありません、AAというのがあります。これがそのAAということの、どうも始まりだったような気がするんですね。で、その人が退院して敦賀のAAにつながったんです。そして、早速スポンサーを見つけて、スポンサーの様子だとか、スポンサーとの交流というのが始まった、というのが始まりなんです。で、向こうから資料が色々送ってきまして、その中でいちばん驚いたのが、「1日24時間」という本がありますけれど、「今は、黙想、瞑想」っていうのが入ってますけれど、その当時、黙想や祈りつていうのはなくて、ただアルコール中毒はどういう、古い本はアルコール中毒は病気だとか、それから感情とかどうなったらどうなるんだ、そんなことばっかり書いてあって、これを読んで私は驚いたんですね。まぁ、病気ってことでほっとする部分もありますけれどね。これほどアルコール中毒っていうのがどうにもならんもんだというふうなことをその本を見るまでは考えたこともないし、感じたこともない、というのが本音です。だから、その本を見て、まぁ、驚いたってもんじやないですが。それからAAの小さな本です。〔AAとは〕〔AAをご存じですか〕〔AAグループ〕というのだとか、それから〔アノニミティについて〕とかそういうふうな本を読みあさったんです。そして、何でもAA勉強会っていうのがあるけど、AAのミーティングみたいなのを、病院の中でやってみるといいなっていう気がしましてね、これがある夕礼の時に、みんな集まって話しませんか、という声をかけたんです。そして10何人の人が集まって、私は当時、副会長をやってましたから、中にはお義理で参加した人もいるかもしれませんね。そんなんで10何人だったんですが、これがだんだん増えていったんですね。それもミーティングが毎日で、それも昼の時間、1時間、みんなが昼寝をしている時にやろうつて言うんですよ。毎日その時間にやっていました。ところがおかげで「AAラーニング」と言って、「ラーニングを始めたんじやから、3ケ月ほど退院を延ばせ」と言われ、退院が3ケ月ほど延びましたけれども、そういうわけで、AAグループがAAラーニングのミーティングを毎日毎日こなしていた状態ですね。だから、私が始めたのがそれから2ケ月くらい経ってからですから、そのとき始めたのが4人です。4人で始めようかって始めたんですけど、一番若い私が残って、後の年寄りはみんな死んでしまいました。反対です。3人とも私よりも一回りも二回りも若い人が皆死んでしまい、私だけ残っているというので、どういう取り合わせか分かりませんけどね。まあ、これも生かされているということしか言い様がないんですね。じやあ、何のために生かされているんだというふうなことを良く考えるんですけど。

 そんなふうにして私、敦賀にも走ってみたわけです。そしてその退院した人のスポンサーにも会ってみたんですけどね、ミーティングにも行きましたね。それはまだ、グループをつくる前ですけど、本当に会場を探して歩くのに大変でね。3会場ほど行きましたけど。そして行き着いて待っている時間に現れたのが背高ノツボのお兄ちゃんでした。お兄ちやんがのそ一つと入ってきて、勿論、「AA」っていう看板が出てますから、ここが会場だなっていうのはわかるんですけど、そんなこんなでその晩は仲間といっしょに仲間の店にいって話し合ったりなんだりして3日間過ごしたんです。そして、どうにかAAを始めたわけなんです。人数が段々増えまして、グループが分かれていったり、他のグループができたり、実は北九州にも1ケ月のちにグループがひとつできまして、毎週土曜日にそれに通っていました。これが1年ぐらい続いたかな。そんなふうでまあ、ミーティングに毎日でかけるという気持ちっていうのはあったと思うんですね。だからミーティングが休みっていうのはあまりしなかったと思います。今頃はちょくちょく休みますけれどね。そうこうしてるうちに、今日20周年ということで、私5年目ですから15年経っているわけです。ところが、この15年なにをしたんじやろうかと思うんですが、本当に何もしていないんですけれど、15年経っています。だから15才年をとったということでしょうね、この3月で75才になります。

 退院したときが60才ちょっと前でしたから、まあ本当になんのために私が今、もうすでに死ぬる人間、すでに葬式の準備をされた人間がね、今おまえまだ生きちょれというふうなことなのかっていうのをね、つくづく考えます。そうすると、いわゆる、仲間といっしょにやりなさいよ、もっともっとおまえにはやることがあるんじやないのっていうようなことだろうと思うんですけれど、さきほどの渡辺先生の話の中にありましたけれど、F・Mさんの諸にもありました見えない力を信じなさいよという、これ、私どもAAでは非常に大切にしている力なんです。ハイヤーパワーつて言いますけれども、自分よりも偉大な力っていうふうな表現をしています。いわゆる原語で、これアメリカの原語ですから、原語では「ゴツト」神ですね。神という言葉を使ってあるんですが、私たちがいちばんこのAAに入ってきて反発を感じるのが「神」という言葉なんですね。ビックブックの中にもあつちこつちに書いてありますけれど、神というのはいわゆる特定の神って言うもんじやなくて、自分より偉大な神なんだよ、自分が理解する神でいいんだよっていうふうな言い方をしています。これがいわゆる見えない力。自分の中に存在するとも考えられるし、自分の周りから助けてくれる、支えてくれる力、そういう力なんだろう。そういうものを信じなさいよ。私たちはこれを「ステップ2」って言ってますけれど、信じたらその力に委ねなさいよ、その力っていうのがAAそのものでもいいですよっていうふうな言い方をしています。だからそういうハイヤーパワーなんだということを非常に大事にしていきたいもんだと思うんです。

 聖書の中に、「まかれた種と土地」という例え話があるんですね。これはルカとマタイにも書いてますけど、ルカは確か8章だったと思うんですが、まあご覧になってみてください。こういう話です。ある人が種まきをするんですね。ところがまいた種がある種は道ばたに落ちるんです。道ばたに落ちた種は、烏が来てさらつていくわけですね。いわゆる死んでしまうわけです。それからある種は、岩の上に落ちる。岩の上ですから雨が降ったときにはわずかに水分が残っているでしょうけれども、お目様が照り始めると乾いてしまって、これも芽が出ない。ある種は茨の中に落ちる。茨の中に落ちた種というのは茨にじやまをされて、自分の芽をせっかく出すんですけど、周りの茨にじやまをされて成長することができない。結局なんにもならない、死んでしまうわけですね。ある種は良い土地にまかれて、その種は100倍の実を結ぶ。そういう書き方がしてあります。そしてその後にですね、この例え話の説明というのがあるんですけど、私たちのことを考えてみますと、高嶺病院という場所で種として育てられた。もちろん高嶺病院に入るそのことで、ひとつの何らかの奇跡じゃないかと思うんです。そりやもう何百万といるアル中の中でですね、我々だけが高嶺病院のお世話になっているわけですから、まだ、我々の何十倍、何百倍という人たちがアルコールで苦しんでいるという現状があるわけです。だから、私ども自身が高嶺病院という土地にまかれて育てられた、色んな気付きを与えられた、色んな慶事を与えられた、そういうふうに感じる事が出来るんですけど、ところがそれから私たちが退院して、さあ、茨の中に落ちるのか、岩の上に落ちるのか、それとも鳥に食われれて死んでしまうのか。幸いここに来てらっしやる仲間のみなさんは、断酒会の方だとかAAの方だと思うんですけど、断酒会とかAAという畑に落ちたわけです。そこでは芽を出すことが出来るんです。雨が降れば芽を出しますし、お目様が照れば段々成長していき、きっと実を結ぶだろうと思うんですけど、ところがなかなかこれがさっきのF・Mさんの話じゃないですが、難しいもんですね。せっかく芽を出して成長しようとするんです。けれども、やっぱりいくらいい畑にも草が生えます。その草に養分を取られて貧弱なものに育ってみたり、あるいはじやまされて死んでしまったりということがあると思うんですね。もともとこのAAのハンドブック、古い方のハンドブックにアルコール医学会の見解というのがあって、その中にアルコール中毒というのは病気である、それも治癒しない病気である、しかしこの病気をコントロールすることを学ぶことができる、というふうに書いてある。病気をコントロールするのだから、いわゆる症状というものをアルコール中毒の症状、自我だとか、自分の悪い癖、短所だとかそういうふうなものを段々矯正していこうとする、努力をするとかね。それから感情のもつれだとかあったときに、飲酒欲求というものから逃れるのではなくて、飲酒要求というものを乗り越えるんですかね。そういうものを克服するっていうか、そういうふうなものは訓練すればできるということなんですね。じやあ訓練ってどうするのかというんですが、訓練の場としてはいわゆるミーティングだとか、断酒会で言えば例会だとかというふうなことになるんだろうと思いますね。そういう場で仲間と分かち合いながら、段々周りの草取りをしたり、肥やしをやったりということで成長していくもんだろうというふうに思うんです。

 この間、貴の花が引退しましたね。彼の場合、15年経ってですね、初土俵から15年ということですから、横綱という地位が残されますし、年寄りと株も手にすることが出来て、これから彼はまだ20何歳なんですが、これからずーつと自分の人生を歩んて行くんだろうと思うんですけれど、我々アルコホーリックは名誉だとか、地位だとか、そういうものがあると、どうも邪魔なようですね。だからそういうものっていうのは、捨てた方がいいよって言うんです。じやあ、今持っている地位や名誉は、これはあったら邪魔になるのか。そういう訳でもないと思いますね。昨年でしたか、ブッシュ大統領が日本に来て宴会の席で、私はアルコーホリックだから飲みませんって言って、酒を一切口にしませんね。だからアルコホーリックだと言うことを自分で表明して飲まん。これもコントロールのひとつでしょう。だからブッシュ大統領といったら第1人者ですから、地位がありますし、名誉があります。だからといって、アルコホーリックの病気というものをコントロールすることができないんかというと、そうじやないんですね。だから要するに、アルコホーリックという病気、アルコホリズムという病気をコントロールすることっていうのが、訓練によって、私たちは出来るというふうなことを感じます。だから、そんなふうにして日々、いわゆる努力をするという、乗り越えをするということになると思いますが。

 しかし私は「がんばる」という言葉があまり好きではなくて、「がんばる」というのは、我を張るんだよ、ということを言うんですが、がんばるんではなくて、気楽にやろうよって言う風なことを言いますけれども、訓練をする必要というのはあると思うんです。いずれにしても、時間が来るようですが、この20周年がひとつの大きな積み重ねっていうことを、共に喜びたいと思いますし、病院にお世話になって今があるということに感謝したいと思います。加えて今日、こういう非常に有意義な20周年という記念行事に、ここに立たせてもらってスピーチさせてもらうということ。何を話したか分かりませんが、そういうことに大いなる感謝を表したいと思います。

 どうもありがとうございます。

(*1)"ピンクの部屋"とは、高嶺病院の保護室のことです。暗い雰囲気を払拭するために淡いピンク色に塗られています。
(*2)ノートルダム清心学園理事長 渡辺和子先生、第20回高嶺病院同窓会 20周年記念特別講演「心豊かに生きる」、高嶺ふれあい 20周年特別号に収録。

 

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